2009.06.11 Thursday
げんにも
月曜日はお通夜に行った。
以下、去年のAERAの高村薫さんの記事。
『遺された者の喪失に、自殺者は思い至らない。死は自分のものではない。』
「 この一年も、三万三千人が自殺した。四割を高齢者が占めるが、最近は三十代、四十代の自殺者が増えているそうだ。そんな年代なら、家族や子どもを遺して逝くことになろうが、自殺者の場合、遺された者が直面する喪失は、病気や事故の場合より、はるかに複雑なものになる。加えて、遺された者は自殺を止められなかった自責の念を一生引きずるとも言われる。毎年三万人も自殺するような社会は、その影響の大きさをもっと恐れてもよいと思う。
自殺の理由は第一に病気、次いで生活苦であり、それらの多くにうつ病が伴うと言われる。また、理由が特定できない自殺も、少なからずある。しかし発作的な自殺であれ、計画的な自殺であれ、その前には必ず精神的な落ち込みと、それによる思考停止の時間があるほか、実行に至るにはさらに、電車のホームや高いビル、首を吊るのに使えそうな紐状のもの、ネットに横行する自殺マニュアルなど、最後の一歩を踏み出させるものが身近になければならない。そう考えるなら、周囲の目が行き届きさえすれば防げる自殺は、一定程度あるということになろう。
とはいえ、死にたいほどの病苦や生活苦だけなら、社会的な手立てによって状況は改善できようが、さまざまな理由で生きる意味や充実感を失ってしまった人びとの場合、社会はいったいどんな言葉で自殺を回避させるのだろうか。君が死んだら、家族や友人たちが悲しむ?生きてさえおれば、いいこともある?
しかし、生きてさえおればいいこともあるというのが必ずしも真ではないことぐらい、現代人なら誰でも知っている。また何より、自殺志願者が求めているのは、どこまでも死であって、生ではない。そこでは死はゲームオーバーのような意味しかもっていないゆえに、かくも簡単に生と対置されているのだが、これは消費文明の果てに私たちが行き着いた人生の意味が、その程度だということにほかならない。だとすれば、自殺防止と言っても、この社会には容易ではないということだ。生老病死と向き合うどころか、生きる意味をひたすら社会的成功と享楽で埋め続け、そこに手が届かなければ即、生きる意味を失い、それでも生きているのは死ぬ理由がないからだとうそぶく私たちこそ、生きる意味を考え直す必要があるということだ。
死はけっして自分のものでなく、つねに人の死であるに過ぎない。また生物としての人間は、死期の近い人を除けば、自らの死をけっして予想しないとも言われる。してみれば自殺者はたんに「いま」や「明日」を見限るのであり、生を見限るのではないと言えよう。また、彼らが求める「死」も、自ら経験することはできない以上、いまここではないどこか、という程度のものでしかないはずだ。自殺がそういう漠とした拒絶の行為であるなら、社会がまず見出すべきは、この漠とした拒絶を言い当てる言葉である。言葉さえあれば、死の誘惑はしばし後退する。」
以下、去年のAERAの高村薫さんの記事。
『遺された者の喪失に、自殺者は思い至らない。死は自分のものではない。』
「 この一年も、三万三千人が自殺した。四割を高齢者が占めるが、最近は三十代、四十代の自殺者が増えているそうだ。そんな年代なら、家族や子どもを遺して逝くことになろうが、自殺者の場合、遺された者が直面する喪失は、病気や事故の場合より、はるかに複雑なものになる。加えて、遺された者は自殺を止められなかった自責の念を一生引きずるとも言われる。毎年三万人も自殺するような社会は、その影響の大きさをもっと恐れてもよいと思う。
自殺の理由は第一に病気、次いで生活苦であり、それらの多くにうつ病が伴うと言われる。また、理由が特定できない自殺も、少なからずある。しかし発作的な自殺であれ、計画的な自殺であれ、その前には必ず精神的な落ち込みと、それによる思考停止の時間があるほか、実行に至るにはさらに、電車のホームや高いビル、首を吊るのに使えそうな紐状のもの、ネットに横行する自殺マニュアルなど、最後の一歩を踏み出させるものが身近になければならない。そう考えるなら、周囲の目が行き届きさえすれば防げる自殺は、一定程度あるということになろう。
とはいえ、死にたいほどの病苦や生活苦だけなら、社会的な手立てによって状況は改善できようが、さまざまな理由で生きる意味や充実感を失ってしまった人びとの場合、社会はいったいどんな言葉で自殺を回避させるのだろうか。君が死んだら、家族や友人たちが悲しむ?生きてさえおれば、いいこともある?
しかし、生きてさえおればいいこともあるというのが必ずしも真ではないことぐらい、現代人なら誰でも知っている。また何より、自殺志願者が求めているのは、どこまでも死であって、生ではない。そこでは死はゲームオーバーのような意味しかもっていないゆえに、かくも簡単に生と対置されているのだが、これは消費文明の果てに私たちが行き着いた人生の意味が、その程度だということにほかならない。だとすれば、自殺防止と言っても、この社会には容易ではないということだ。生老病死と向き合うどころか、生きる意味をひたすら社会的成功と享楽で埋め続け、そこに手が届かなければ即、生きる意味を失い、それでも生きているのは死ぬ理由がないからだとうそぶく私たちこそ、生きる意味を考え直す必要があるということだ。
死はけっして自分のものでなく、つねに人の死であるに過ぎない。また生物としての人間は、死期の近い人を除けば、自らの死をけっして予想しないとも言われる。してみれば自殺者はたんに「いま」や「明日」を見限るのであり、生を見限るのではないと言えよう。また、彼らが求める「死」も、自ら経験することはできない以上、いまここではないどこか、という程度のものでしかないはずだ。自殺がそういう漠とした拒絶の行為であるなら、社会がまず見出すべきは、この漠とした拒絶を言い当てる言葉である。言葉さえあれば、死の誘惑はしばし後退する。」
2009.06.10 Wednesday
寅吉食堂の大盛りご飯
通勤に阪神甲子園駅を使ってる。
球場でナイターあるときは、
ちょうど試合終了と重なったりすると、トラキチで混雑の極み。
「僕、全然関係ないんでー」って警備員に言っても、
横断歩道も渡らせてもらえへんし、バスもタクシーも長蛇の列。
くたびれて帰ってきて、とどめをさされるわ。
こないだ滋賀で、寅吉って食堂に入った。
おなか空いてたからご飯大盛り頼んだら、
見るだけでおなかいっぱいになるくらいほんまにてんこ盛りで、
おばちゃんが遠くから運んでくるのが見えたときに、
「まさかあれ、おれのちゃうよな!?」って軽く祈ったくらい。
今月の23日で、トキゾーは2歳です。